今日は、夫といっしょに、ベルリンから北西へ70kmほどの街を訪れました。
ローカル列車の窓外には、広大な草原が続いていて、時間がとまったような感覚でした。湖が見えてきたと思ったら、突然、街が現れました。


駅のインフォで地図をもらって、その案内のとおりに歩くことにしました。

この街は、1787年に大火災が発生して、街の3分の2が消失したそうです。
当時のプロイセン皇太子による、国家を挙げた再建により蘇った街が、今まで残されているそうです。


再建の特徴は、格子状の幅広い道路と、ゆとりの広場、新古典主義デザインのレンガ造りの(燃えにくい)住宅だそうです。

こちらは、薬剤師で作家の Theodor Fontane テオドール・フォンターネの生家 Löwen-Apotheke レーヴェン・アポテーケ(ライオン薬局)です。



その隣には、Fontane Buchhandlung フォンターネ・ブーフハンドルング(書店)があります。

書店の入口を入るとすぐに、フォンターネのコーナーがありました。


この絵本『Herr von Ribbeck auf Ribbeck im Havelland』は、日本でも『リベックじいさんのなしの木』と訳されて出ています。
心優しいリベックじいさんは、いつも子どもたちに自分の梨を分け与えていました。しかし、その息子はたいへんケチでした。自分の死後、息子が梨を独り占めするだろうことを知っていたおじいさんは、自分の墓に梨の実を1つ埋めるよう言い残します…というお話です。
Ribbeck リベックというのは、実在の村で、Havel 川沿いの梨の産地だそうです。
広場では、青空市が開かれていました。




パッサージュが目に止まりました。Neuruppiner Bilderbogen(ノイルピナー・ビルダボーゲン)と書かれています。

柱にさまざまな版画が掛けられています。


版画にさそわれて奥へ進んでいくと、後ろから声をかけられました。
「私の言うことがわかるか」と言うので、「少しなら」と答えると、「ついてきて」と言われました。レストランの店主のようです。

壁には古そうなものがたくさん掛けられています。どれも「150年前のオリジナル」なのだそうです。



実は、このレストランは、街をひとまわりした後、旅の終わりにも、もういちど訪れて、コーヒーを飲みました。
店主は、両親が旅館を経営していたときに飾られていたものを、ここに持ってきたこと、壁の写真の赤ん坊は自分の孫で、もうすぐ会えることなどを話してくれる、気さくなおじさんでした。


それから、Tempergarten テンペルガルテン(神殿庭園)へ向かって歩きました。


どこを歩いていても、中世のStadtmauer (都市城壁)が目に入ります。


もともとは、プロイセン皇太子が、自分たちの食べる野菜や果物を育てるために造らせた、憩いの場所で、「Amalthea-Garten アマルテア庭園」という名前でした。
その後、園の中央に、ギリシア風の円形神殿を建てたため、「Tempergarten テンペルガルテン」と呼ばれるようになったそうです。
ところが、さらに後の時代に買い取った実業家によって、中東風に作り変えられたのだそうです。奇妙な風貌をしているわけがわかりました。


次は、Fontane-Apotheke(フォンターネ薬局)の向かい角にある、フォンターネの銅像を見に行きました。

ここの交差点は、信号機ランプもフォンターネおじさんみたいです。



銅像からすぐの場所に市役所があります。



こちらは、モデル住宅でしょうか。放置されていた(写真にように、DDR時代には屋根が無くなるほどに荒れるなどしていた)建物を、手入れして、現在は、住宅として使っているとあります。このような例が、この街にはたくさんあるそうです。


こちらは、QRコードを読んで、支払い、ボートを借り出し、返却できる、すべて自動のボート貸出施設だそうです。ちょうどボートを返しに来た人たちに尋ねると、3艇で100ユーロほど支払ったと言っていました。

川沿いには、ボート協会の施設が点在しています。



Altes Kasino アルテス・カジノと書かれています。Kasino には、会館・食堂という意味があります。湖を臨む、気持ちのいいホテルになっていました。

2つの塔が、遠くからでもよく見える建物は、Klosterkirche St. Trinitatis クロスター・キルヘ・ザンクト・トリニタティス(聖トリニティ修道院教会)です。
1246年に建設が始まったものが、修復を経ながら、今も残されています。
最初は2つの塔は存在しなかったのだそうです。19世紀に、Karl Friedrich Schinkel シンケルらによる大修復が行われて、今の新ゴシック様式の姿になったそうです。



ステンレス製のこの像は、この教会を創設したといわれる修道僧 Pater Wichmann パテル・ヴィヒマンだそうです。

伝説がいろいろ残されているそうです。たとえば、対岸の街にいるとき食事の合図の鐘を聞いて、湖の上を歩いて帰ってきたそうです。
また、自分の死後は、墓の上に菩提樹を植えるように指示し、菩提樹が生きているあいだは墓を暴いてはならないと言い残したのだそうです。

湖岸には、巨大な Palzival am See(湖畔のパルツィファル)がそびえ立っていました。

街の中にもどって、Kirchplatz キルヒ・プラッツ(教会広場)のほうヘ向かいました。
途中には、古い建物が残っている一帯があります。このあたりは、大火の際に奇跡的に焼け残った場所だそうです。
1491年に建てられたという Siechenhauskapelle ジーヒェンハウス礼拝堂は、今はコンサートなどに使われているそうです。




通りの中庭をのぞくと…。


Kirchplatz キルヒ・プラッツ(教会広場)にやってきました。とても広くて、大きな遊具も設置されています。

Karl Friedrich Schinkel シンケルは、ここで生まれ育ちました。この広場に面して実家があったそうです。
しかし、大火で実家が焼失し、父親も亡くなります。

シングルマザーとなった母が身を寄せたのが、この Predigerwitwenhaus プレーディガー・ヴィトヴェン・ハウス(説教者の未亡人の家)でした。

シンケルはここで、街が新ゴシック建築の建物によって再建されていくのを見ながら、13歳まで育ったのだそうです。なるほど!!

案内地図を見ながら、街を歩き回り、なんとか観光ポイントを全クリできました。電車の発車時刻を目指して駅に戻りました。

帰りの電車は、30分ばかり遅れて到着しました。
ベルリンまで行く電車でしたが、さらに、途中の駅で、「この電車はここで止まります。みなさん、降りてください」と言われました。
乗客たちは慣れたもので、ため息をもらすぐらいで、文句も言わずにその駅で降りていきました。私たちも、他の乗客に従って乗り換えました。

帰りの電車のなかで、メッセージアプリの Signal を開いて、ライプツィヒの友人にチャットしました。Fontane フォンターネの街に行ったことを伝えると、すぐに返事がもどってきました。
彼の長編小説『Effi Briest エフィ・プリースト』は、東ドイツ時代のギムナジウムで、教科書に載っていたから読んだとのこと! 古い雑誌の写真まで送ってくれました。


