65 Jahre Mauerbau ベルリンの壁建設から65年

歴史

ベルリンの壁65周年イベントの5日目の今日は、ガイドも行われると聞いて、その時刻に合わせて参加してみました。

ホームレスの人も、意見を表明しています。
イベント会場に行く前に、ロシア大使館に寄ってみました。
バリケードの向こう側も、さらに塀があり、門塀は固く閉じられています。
ロシア大使館前の「Brandenburger Tor 駅」は、何年も閉鎖されたままです。
ここに車や物品を放置することを禁じる、ベルリン警察本部長、という標識があります。
ロシアで収監中に亡くなったナワリヌイ氏を悼む、追悼スペースです。春に来たときよりも縮小されている気がします。
補修中の歩道には、なぜか歴代の首相の顔写真が並んでいます。
「パリ広場」 地下鉄のブランデンブルク門駅は、ウンターデンリンデン通りの西端にあり、このパリ広場に行き当たります。1734年に作られた広場ですが、1806年の対ナポレオン戦争でパリを制圧した記念に改名されたそうです。
「3月18日広場」 ブランデンブルク門の西側の広場は、1848年の3月革命と、1990年の東ドイツ初の自由選挙を記念して、名づけられたそうです。
さらに西側には、「6月17日通り」(1953年、東ドイツ国民が、政府の労働ノルマに抵抗したけれども、武力鎮圧されてしまった日を記念した命名)があります。通りの向こうの端には、「ベルリン天使」の塔が見えます。
3月18日広場が、ベルリンの壁建設65周年のイベンド会場になっています。
イベントのため壁が、もと壁のあった場所に設置されています。
向こう側が透けて見えます。

壁からの眺め ベルリン1961年から1990年

「注意! いまあなたは西ベルリンを出ようとしています」

都市の分断

中央の図はベルリンの分断、右上の図はドイツの分断を示しています。
東ドイツ側の航空写真

分断の象徴

国会議事堂方向からの撮影。パリ広場も、3月18日広場も、Todesstreifen 死の帯のなかにあって、ブランデンブルク門には、東西どちらからも近づくことができませんでした。

驚きのまなざし

なんの予告もなく、日曜日の朝にはすでに分断されていました。
壁の建設が進められるのを、あきれて見つめる西側の人たち
分断のごく初期には、両側の住民が壁をはさんで語り合っていたそうです。

連帯のまなざし

鉄条網を通して、東側の人たちに手を振る西側の人たちです。東側の人たちは、やがて、手を振ることも禁じられました。
赤ん坊を高く掲げて、親戚や知人に見せています。

目的:脱走阻止

東側から逃亡を図ろうとする人たちは、容赦なく射殺されました。
最初の犠牲者、ギュンター・リットフィン 24歳(1961年)。
ミャンマー出身のこの男性は、大使館の車のトランクに、マルタ・ウルブリヒト38歳を隠して、逃亡を助けようとしましたが、見つかり、2人とも逮捕されました(1981年)。
壁の建設によって、東ドイツから西ドイツへ逃亡する人の数は大きく減っています。

監視する視線

境界帯では、常に2人組が取り締まり、それぞれが外側と内側をチェックしていました。

禁じられた視線

東側では、境界帯を撮影することは禁止されていましたが、家族写真などに映り込んでいました。
東側を訪問した人によって撮影された写真には、パリ広場とブランデンブルク門が写っています(1967年)。
逃亡を図る直前のギュンター・リットフィン(1961年)

いつもの風景

壁によって仕切られた通りは、通行には使えなくなり、子どもたちの遊び場になっていたそうです。

ジャーナリストによる視点

東側に行こうとした女性を、大勢で囲んで阻止しています(1961年)。
Fridrichstraße フリードリヒ通りで向かい合う ソ連軍とアメリカ軍
撃たれて出血する青年を運び去る国境監視員

観光客のまなざし

国境から東ドイツを見るために、世界中からたくさんの観光客が西ベルリンを訪れたそうです。
観光バスでやってきた人たち。ここは、Waldemarstraße ヴァルデマール通りと書かれているので、あの『ベルリン天使の詩』の主人公ダミエルが、人間として目覚めた場所です。

調査の観点

東ドイツ政府は、逃亡の犯行場所を、綿密に調査し記録したそうです。
西側から爆破された壁を調査するために、敢えて西側に姿を現した、東側の研究者
逃亡に使われたバスは、数え切れない弾丸の跡が見られます。

ベルリンの壁崩壊

1989年11月9日